惜別

 8月9日、業務推進主査の八津川誠一郎君が逝去いたしました。たった3か月の闘病でこの世を去ってしまいました。短すぎるではありませんか。あんなにがっちりして病気すらも寄せ付けないと思っていたのに、まるで急ぐかのように逝ってしまいました。社員全員が回復の願いを込めて折った二千羽の鶴の甲斐もなく死にました。ガンのステージ4と医者から聞かされても、必ずみんなのもとに戻って仕事に復帰すると言い続けていました。そしてまた、私たちも必ず彼が病気を追いやって再び一緒に仕事ができると信じ続けました。しかし、身体を蝕む病魔には勝つことができず、63年の生涯を閉じてしまいました。
 私と八津川君はかれこれ50年近い付き合いがありました。最初の出会いは、私が高校2年の時にふたりの母校である大阪府立夕陽丘高校の野球部に入部してきた時です。がっしりした体形、ギョロッとした目で先輩となる我々に臆することなく入部してきました。そこから付き合いは始まったのです。野球センスは良く、足も速かったので部員数も少なかったこともあり、すぐにレギュラーとして試合にも出したのです。3年生が卒業して私がキャプテンとして新しいチームを創ることになってからも、練習にも試合にも意欲的に取り組んでいきました。翌年、夏の大会が終わって、我々3年生が引退したあとは、彼もキャプテンとして次の新チームを担っていったのです。そんな出発点でしたが、私が卒業してからはお互いに進む道も違い、違う大学であったこともあり、だんだんと会う機会が減っていきました。
それから10数年経ったある日、私が前職で北海道から大阪本社に転勤があり、東大阪に居を構えたのですが、当時小学1年生の息子のクラス名簿を見たとき、見覚えのある「八津川」という苗字が目に入ったのです。えっ?八津川?そんな珍しい苗字どこにもない、遠い記憶をたどれば、確かこのあたりの住所が自宅であったような。それが再開のきっかけだったのです。彼も名簿をほぼ同時に見たようで、すぐに電話がかかってきました。この2回目の出会いがその後、今まで続くとは想像もしていなかったのですが、その後の25年間、密度の濃い付き合いをすることになっていくのです。家が近かったので盆踊り、運動会など、家族ぐるみの付き合いになっていきました。そして、お互い息子たちには野球をやらせて、小学校はソフトボールで、中学校からは硬式のボーイズリーグの同じチームに入れたのです。そして、チームの専用球場の整備や試合場所への子供たちの送迎運転など、一緒に行動することが今まで以上に増えていきました。そして、夜になれば酒を酌み交わしてグダグタと過ごしたものでした。中学を卒業すると、息子たちは違う高校に進学して会う機会が減ったかのように思えたのですが、私が当社を起業したことでまた、新たなる付き合いが始まるのです。創業から3年目に副業的に学習塾を始めたとき、当時、非常勤講師として高校で教えていたことから、この学習塾で講師として働き始めてくれるようになりました。本来が熱血漢で、みなさんもご存じのように声が大きく、一見ガラが悪そうな風貌なのですが、打算のない一途なところに子供たちはすぐになつき、一生懸命勉強するようになりました。その学習塾も5年ほど運営したのですが、少子化も進み、廃業することになったのです。その時に、そもそも本業であるガソリンスタンドの仕事を手伝ってはどうかと打診して現在に至ったのでした。学習能力は流石で、危険物の免許は1か月足らずの勉強で一発合格でした。そして、新規契約先での指導研修業務もしていくことになるのですが、持ち前のバイタリティと、スタッフのみなさんの目線で徐々にスキルアップして行ってくれるようになりました。しかしながら、そんな本人の性格は、良くも悪くも頑固でした。高速道路では常に追い越し車線を走り、後ろから煽られても譲らない、土日は、男のロマンと言ってははばからない競馬に打ち込み、独自の理論で、たとえ、負けが込んでもやめることはなかったのです。自分でこうと思えば、周りが何を言おうと聞き流すだけでした。今回の病気も、年に一度の健康診断を毎年受けていればもっと早期発見できて、事なきを得ていたかもしれません。天上天下唯我独尊、自分の意思を貫いたのかもしれませんが、私たちには悔しい結末でしかありません。総ての結果が我々の後悔でしかありませんが、何れ私たちも天上に召される日はやってきます。少々慌てんぼうの彼は、先に行ったことを自慢げに迎えてくれるのかもしれません。亡くなる最後の日の朝に、細くなった手を差し出し、握手を求め、目をカッと見開いたのは、永い二人の歴史を喜んでくれたのかもしれません。振り返れば楽しかったことしか浮かばないけれど、仕事では苦労も掛けたね。おれは、いつまでも惜別の念でおまえを思い出すよ。安らかに。