介護保険制度のきらめき

 最近になって介護事業分野の仕組みを色々と知る機会が増えました。義理の父が介護施設のお世話になり、また、自分の母も既に介護分野のお世話になって初めて知る機会を得たのです。介護保険に関わる介護の等級や、その等級によって受けることができる介護の中身など、お恥ずかしながら、自分に直接関わってきてやっと徐々に詳細を学んでいます。今、私たち働く世代は、国の制度による介護保険料を毎月の給与から天引きされているのですが、その制度の受益者となって初めてその恩恵を受ける実感を得ています。介護保険に全く関係のないときは、何で毎月高額な保険料を取られるのかと疑心暗鬼な心境でしたが、わが身の周辺に介護というものが必要になって、ようやくその実態を知ることになりました。最近、年を重ねるごとに自分の老化をつくづく実感している今日ですが、さらに歳を重ねるともう一段、自分の意志とは裏腹に自分を制御できない実態があるかもしれないことをひしひしと感じさせられています。そんな環境下で、日々お世話になっている介護施設やその介護に従事されている人たちと会話する機会が増えて、様々なことを学びつつあります。介護保険制度はもとより、介護に従事されている人々の要介護者への接し方、ことあるごとの処置の仕方など、頭が下がる思いの中で、常に感謝の気持ちでいっぱいです。認知症が進行して常軌を逸した要介護者に笑顔で接してもらっていること、清掃や排泄の後始末、食事、清掃などの日常的作業を淡々としていただけることに常に感謝しています。介護保険制度がなかったころは、そんな役割は、すべて家族が世話をしなければならなかったのです。介護のために仕事に支障を来して、その生計までもが脅かされたり、精神的なダメージを被ったり、家族が崩壊するなど、誰もが身につまされる問題でもありました。そんな家族の介護の下で、果たして老人はどこまで感謝できるものなのか、どこまでその介護による苦労を感じられるのか、個人差はあるものの、老いていく過程で自分ではどうしようもない苦悩の中で、その実感は、どんどん薄れていくのではないでしょうか。それでも介護の現場で仕事として取り組んでいる人たちは、最後は絶対見返りのないその仕事に一生懸命取り組んでいただいているのです。もちろん、仕事ですから報酬を得るわけですが、報酬以上の介護者としての理念、すなわち、ある意味自己犠牲でもあり、献身であり、弱者へのいたわりなどがないとできない仕事と感じます。介護というものは、自分の家族の身になってようやく知り始めたのです。その中には、特別養護老人ホームや介護老人保健施設が、こんなに数多くあるのかとか、それらのお世話になる施設の従事者の仕組みとか、医療関係との連携など、官民との連携も含めた介護の世界を数多く知ることになったのです。しかし、ここで気になるのは、現在の介護保険の財源は、今は働く人たちの給与からの控除で賄えているのですが、この先、自分たちの子供の世代になったときに、年金制度と共に、果たして財源が回っていけるのか心配です。いや、現状でも実際には賄えておらず、我々の医療や老人医療の削減などが犠牲になっているのも事実です。そうなると頼るところは国政でしかないのですが、利権政治がはびこった現状では心もとないのも事実です。だから、大事なのは先ず、国民すべてが正確に、詳細に、政治の中身を知る必要があります。そのためには教育者が子供たちに教える度量、技量が必要となります。その結果として本当に国民のためになる政治家を選ばなければなりません。政治家が悪い?いえいえ、それを選ぶ国民それぞれが悪いのです。正しい、厳しい目で政治家を選ばなくてはならないのです。くれぐれも私事、私的にお世話にならぬように。